ほとんど終わり頃になってではありますが、先日行ってきました。
新羅は4世紀中頃に成立した韓半島南東部にあった国で、都を現在の慶州に置いていました。6世紀半ばには西にあった百済と争った結果、韓半島南部にあった伽耶を取り込んで強盛となりました。その後、7世紀後半には唐、百済、高句麗、それに倭(まだぎりぎり日本じゃない)を交えた乱戦の末、668年に韓半島統一に成功し、その後続く朝鮮諸王朝の礎となりました。
今回の展示では5・6世紀代の新羅時代の古墳の副葬品を中心にした展示でした。副葬品の中には金製耳飾りや勾玉を交えた首飾り、それに新羅土器など、日本列島の古墳の出土品とあまり変わらない(というか酷似してる)ものもあり、両国の密接な関係を伺わせるものがありました。一方、角杯やガラス製の器、ファイアンス玉など中央アジアからオリエント、一部はヨーロッパまでの広い範囲から集まった美しい品々から、この新羅にユーラシア大陸をまたいで造られた巨大な交流網の一端があったことは間違いないとの趣旨でした。
ガラス製の器といえば国内では新沢千塚126号墳での出土が著名ですが、日本国内では出土絶対量が少なく、かなり貴重なものです。一方、新羅国内では中国製磁器・陶器がほとんど出土しないことは新しい知見でした。長崎県壱岐にある双六古墳からは隋代の二彩陶器が出土したことが知られていますが、これは百済経由でもたらされたものなのでしょうかね。
また、1コーナーではありましたが、岡山県内から出土した渡来系遺物を展示したコーナーが設けられていました。岡山市高塚遺跡出土の軟質土器や赤磐市斎富古墳群出土の角杯、曲刀子など5・6世紀代に韓半島から渡来した人々がもたらしたと思われる様々な出土品が展示されており、特に斎富古墳群の被葬者については鉄器生産との関わりが伺われるとのことでした。もともと鉄器の冶金技術も中国から韓半島を経て伝わったもので、岡山にもまた、韓半島を経由して大陸へと至る交流網が続いていたことは間違いなさそうです。
ユーラシア大陸をまたぐ複数の文化・文明が巨大な交流網に沿って展開した5・6世紀。この時代に現代にも負けないくらいなダイナミスムを感じるとともに、日本の古墳時代研究にもより巨視的な視点が必要であることを痛感させてくれた展示でした。
| 2009年07月27日 00:00
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井原市埋蔵文化財センター古代まぼろば館では7月24日から9月23日まで夏季企画展を、8月30日に石器づくり体験の講座を開講するそうです。
企画展示ではセンターが昨年度の調査した井原市西江原町の青蔭城跡出土の土師質土器、亀山焼などの遺物展示を行うそうです。また、写真パネルなどで調査の様子を紹介するそうです。
青蔭城跡は井原市街地東部にある鎌倉〜室町時代の山城跡で、城主の大山氏は那須与一に従って東国から下向したとされる有力在地領主です。承久の乱で活躍し、太平記にも登場することで有名な氏族です。
また、石器づくり体験講座は8月の文化財センター講座では石包丁を作るそうです。夏休み最後の思い出に親子で参加されてはいかがでしょうか。参加には申し込みが必要で、センターまで電話、ファックス、メールで8月28日(金)までに連絡とのこと。良い席はお早めに。
| 2009年07月20日 23:15
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八紘古墳群現地説明会の様子
というわけで、先頃開催された八紘古墳群現地説明会へ行ってきました。
当日はうまい具合に曇り空。駐車場が遠かったので、ちょっと助かりましたね。
写真は八紘4号墳です。見ての通り天井石は後世に取り外されていますが、なんとか奥壁、側壁とも一段目は残っているようです。割と大きな石を積んでいるようで、この辺の石室の変遷観から見れば、七世紀にかなり近い時期のものかな。また、奥壁よりに平らな川原石を敷いて床面としています。この辺は以前に総社市教育委員会により調査された八紘2号墳と同じですね。
5号墳も似た形状でしたが、こちらの床石は少し小振りな礫を使っていましたね。奥壁も2枚になっていたから、4号墳より少し古いのですかね。
6号墳は不思議なことに石室がだいぶ高いところに開口しているようですね。つまり、床面が2段目の外護列石と同じ高さにあることになります。うーん、あまり類例を知らないなぁ。この古墳の石室は、4号墳、5号墳と比べるとかなり小振りな石を使っていて、見つかっている須恵器もTK43ぐらいとのことでしたから、今回調査された古墳の中では最も古いのかもしれません。

八絋古墳群遠景
さて、今度の写真は古墳群を南から撮ったものです。テントで見えにくくなっていますが、写真中央左よりから6号墳~4号墳です。左から右の順で新しくなっているようで、写真左奥にあたる谷奥から順番に築かれたようですね。ちなみに、6号墳隣にある小高い丘陵上からは円筒埴輪が多数見つかったそうです。時期は6世紀前半とのことで(もう少し古いかも)、この近くに最も古い古墳があったようですが、残念ながら県道の工事で既に壊されているようです。

古墳群から総社平野方向を望む
最後に、古墳群から望んだ総社平野です。八絋古墳群は総社平野から高梁川を渡り、新本川を約5kmほど遡った谷奥にあり、周辺には多くの古墳や製鉄遺跡があります。
この古墳群の南側丘陵斜面には二反峠古墳群があり、写真右手には6世紀前半(!)の製鉄遺跡として知られる砂子遺跡があり、さらに写真奥の山際にも工業団地造成に際して6世紀前半の古墳群や製鉄遺跡が造られていることがわかっています。この谷はいわば古墳時代のコンビナートなわけですね。
また、現在古墳群裏を通る県道54号線は近世に玉島往来として利用された街道であり、この道を南にたどれば吉備三大巨石墳として知られる箭田大塚古墳のすぐ側に出て、さらに進むと7世紀代の須恵器窯として知られる玉島陶古窯跡群を経て、玉島灘へ至ります。このルートをたどれば総社平野を通ることなく瀬戸内海に到達できるという、とても意味ありげな陸路の最短コースと言えるでしょう。
こうした場所に展開する八絋古墳群。どうも6世紀代の吉備の社会史を考えていく上で、とても重要な資料であることは間違いなさそうですね。
| 2009年07月12日 23:32
| 岡山県考古学情報, 現地説明会情報
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